【人生経歴紹介記事】かちけいとの半生 高校中退して東京から天草に移住、2年を経て地域ライターになるまで。

ライティング

ただ私、かちけいとの人生をつらつら書いていくだけの記事になります。
長いのでご注意ください。


2003年の横浜、看護師の母となんかよくわからない会社を渡り歩いてる父親の間に生まれ、5歳の頃にもれなく破局。3歳下の妹と一緒にシングルマザーの家庭で育ちました。

両親がいた頃の記憶はほとんどないので、残っているのは小学校からの記憶がほとんどです。
なので実質シングルマザーの子という人生観で幼少期を生きてきました。(母親は私が5歳の頃から急に聞き分けが良くなったと言っていたので子供ながらに何か思うところはあったのかもしれませんが)

公立の小学校に通い、日中は母が仕事なので学童に夕方まで通い、土日は家にいても母は疲れ切って寝ていたので少年野球に行っていました。
大して上手くはなかったですが、野球根性みたいなものは身に着いたのでよかったなと思っています。

そんな母にも転機が訪れ、今の父親と再婚しました。

私が中学校に上がる直前に再婚することになり、父親の職場の近く、東京・小金井市に引っ越すことになりました。
横浜にいた頃はわりと片田舎くらいのところだったので、小金井はそこそこ都会な感じで嬉しかったのを覚えています。

中学も公立に進み、少年野球の外周ランで辛い思いをしていたので走りたくないけど運動はしたいという甘ったれた気持ちで走らなそうな剣道部を選び、武道経験者なら共感するかもしれませんが無事に走るよりも辛い経験を沢山したのですが、武道の礼儀の心持ちが付いたのと人間形成の修練は心身共に大きく成長できたので武道を通ってよかったなと思っています。

高校選びは親がすごく真剣に考えてくれたので、中1の頃から10校以上の学校説明会やオープンキャンパスに参加、文化祭に見学に行き、中2の頃には志望校が決まっていました。当時は行くのめんどくさいなとか思っていたのですが、今となっては本当に感謝しかないです。

東京において高校選びはものすごく重要であり、都立高は約180校、私立校は約240校ほどあり、合わせて420校以上の高校が都内にはあります。
それほど数がある中で、各校はそれぞれの魅力を持ち他校と差別化をしています。高校選びが大学選びにもとても影響してきますし、高校時代にどんな経験をしたいか、今後どんな人生を歩みたいかにもわりと関わってくると思っています。

私は高校生活に「自由」と「行事の面白さ」を求めたので、都立高の中でもトップクラスに行事が豊富で校則もない都立立川高校を第一志望にしました。

とはいえ、中学までは授業を聞いていればなんとなくテストで点数がとれる感じだったので学校外で勉強をする習慣が全くなく、塾に週6で通うことでなんとか机に向かえていたのですが、それが何か月も続くとさすがに嫌気がさしてきて中3の冬なんかは親に黙って週2回くらいは塾をサボっていました。
サボっている間は暇だったので、本屋に通い、当時勉強がしたくなかった私は「勉強できずに中卒高卒でも人生なんとかなる!」系の自己啓発本を読み漁ったり、中学生の背伸びしたい自尊心を刺激する自己啓発本のタイトルの数々に魅了され、本を読むという行為に慣れたのと、自分が知らない世界がめちゃくちゃ世の中にはあるということを知れたのが今の人生のターニングポイントだったなと思っています。

受験は前評判で合格率30%といったところでしたが、その年は自分の得意科目が難しく若干他と差をつけ、苦手科目は最高に難しいことで皆解けずに他とあまり差がつかないという運の良さで合格し、晴れて第一志望の立川に進学しました。

この高校は生徒の自主自律を一番に謳い、校則はなく生徒主体の校内運営を行っている高校です。行事・委員会・部活などの学内コンテンツの運営は全て生徒が回して引き継いでいました。

高校1年生の時はそれなりに楽しく高校生活を満喫し、部活は軽音楽部でライブ運営やイベント企画に関わったり、行事は合唱祭に関わったり、夏休みの文化祭準備ではほぼ毎日登校し現場のプロジェクトリーダー的な役職をしていたり、チームで何かを作り上げることに強い感動を覚え熱中していました。

高校2年生に上がる前には合唱祭実行委員会(以外、合実)の副委員長に就任し来年の開催に向けて準備を整えていたところでした。

そして、人生が大きく変わった高校2年。

2020年4月です。

新型コロナウイルスの流行により、春休み明けにいきなり学校は5月末までの一斉休校となりました。

当時高校生活の全てをかけていた合実の活動もコロナで行えなくなり、6月の開催も絶望的。
慣れないオンラインでの学習も身が入らず、何もできない東京で余りある時間をただ消費するため半ば自暴自棄にオンラインゲームを始めました。

当時は同じように考えていた人も多く普段はゲームをやらないような人もやっていたり、リモートワークの息抜きなんかにプレイする人もいたり、多種多様な人がオンラインの世界に交流を求めてやってきていました。
しかも、私が参加していたワールドは運よくバランスが拮抗したとても楽しい状況で敵味方みんなが仲良く居心地がよく、4月5月中は毎日10時間以上プレイしていたと思います。


そのゲームにはボイスチャット機能があり、リアルでやることを失くした多くの人たちと一緒にほぼずっとボイスチャットをしていました。時にはゲームは全くせず一晩中チャットだけしている日も多くありました。
そのため、ボイスチャットを通じて色々な職業の方と多世代的に話をすることができ、自分の世界を広げることができました。

6月以降もその状態は続きましたが、ようやく学校の分散登校が始まったり出社を再開する企業が増えたりしてゲームを一緒にプレイしていた人たちも段々と普段の日常へ戻っていった感じでした。

また、学校でも大きな動きがありました。
教育委員会からの通知を受け、体育祭・合唱祭・演劇コンクール・文化祭などの行事の中止が決定されました。
しかし、落ち込んだのもつかの間、演劇コンクール(以下、演実)副委員長の方に各実行委員会の幹部が集められ「実行委員会合同でオンラインの行事を行いませんか」と提案されました。

もちろんその場で全員合意した私達は各実行委員会の頭文字をとって「GTEC」を結成し9月の行事開催に向けて動き出しました。

行事名は「青春奪還大作戦」。

内容はオンラインで完結する文化祭をテーマに、合唱祭や演劇コンクールの要素も含めて各クラスに動画を作成してもらい生徒投票と審査員投票で賞を決めるというものでした。
毎日のように幹部でミーティングをして、総勢50人も集まった有志委員を各部署に分けマネジメントし、制作した細案などを先生方との企画調整会議に提出したり、著作権について詳しく調べ音楽の使用などは関係先に確認を取ったり、ガイドラインを策定し制作された動画が問題に抵触していないかの確認をしたり、などその他色々な仕事を1から考え、約3ヶ月半で行事の起草から運営までを行いました。その後は学校外への一般公開も行い、立川高校に興味のある中学生向けにサイトを公開しました。
実際に制作された動画で賞を取ったものはこちらから見られます。

http://tachikawa-h.xsrv.jp/zen/wiki.cgi?page=20201119%5F%C0%C4%BD%D5%C3%A5%B4%D4%C2%E7%BA%EE%C0%EF%B0%EC%C8%CC%B8%F8%B3%AB

この経験を経て、私はプロジェクト運営の面白さを強く体験しました。
1年の時の合唱祭でも現場の仕事は物凄く楽しかったのですが、幹部としてプロジェクトマネジメントをして、運営の面白さを知ることができた今回の方が圧倒的に楽しかったです。

少し戻って8月、もうこの頃はオンラインゲームにはあまり顔を出さないようになりましたが、ゲーム仲間とは会ったこともないのに旧知の仲のような感じで8月に千葉でキャンプオフ会が開催され私も参加することにしました。
自分以外のメンバーはみんな30代が多く、前日前入りでメンバーの家に泊まらせて頂いて回らないお寿司を食べさせて頂いたり、グランピングの施設料やBBQの食材代などは奢って頂きました。
初めて家族以外の人たちと一緒に旅行して泊まったのは新鮮で物凄く楽しくて今でも忘れることのできない思い出となりました。
自分でも高2でこの経験をしたことで何かに参加することのハードルはめちゃくちゃ低くなりました。
いい人たちに出会えてよかったなと思っています。

9月、GTECの活動も終わりに差し掛かる頃、高校内で「投資部」という非公式のサークルが立ち上がりました。毎日授業が終わったらGTEC幹部みんなで集まるのが日常だったこともなくなり、何かぽっかりと自分のアイデンティティがひとつなくなってしまうことが寂しくて、次の動きを探していました。
そんな時に投資部という話が耳に流れ込んできて、これはやるしかないと直感で参加を決めました。

当時世間は投資ブームの機運が高まっており、私もビジネスや投資にちょっと興味はあったのですが、なかなか一人で勉強しようとは思えずにいました。
そんな中、投資部は15人程のメンバーに恵まれ、毎週勉強会を開いては部員同士で議論したり、よそから投資家の人を呼んで講義をしてもらったり、企業の役員の方やIR担当の方をお呼びして企業側から株式についてお話をしてもらったり、周りに同じ興味のある人がいる環境というのはとても楽しくてコミュニティの強さ面白さを知れたのは、これがきっかけでした。


他にも投資部に所属していたことで、色々なオンラインイベントを紹介して頂いたり、実際に会って色々な大人と繋がることができたりして、初めて学校の域を超えて社会を知ることができました。
オンラインゲームで知らない大人と話すことに慣れていなかったらオンラインイベントなんて参加してなかったと思いますし、グランピングに行った経験があったから色々な大人と実際に会うフットワークの軽さを得ることができたと思っています。

その中でも転機となったのが社会課題解決について語る勉強会に参加したことでした。
それまで私は社会課題には興味がなく、国やNPO・NGOが解決してくれるだろうと思っていたのですが、それを起業という形でビジネスをして利益を上げながら解決していく。むしろ社会課題があるところに起業のヒントが隠されているということを知り、社会課題に対して興味を抱きました。

そしてある時「環境と持続可能なまち・文化」というテーマのオンラインイベントで社会課題解決としての地方創生や地域とは何かという勉強会に参加したのですが、これが地域に関わる始まりの一歩となりました。

内容はこうでした。

「今後は今までのグローバリゼーションからローカライゼーションの時代が来る。」

「昔は都会が地域に頼っていた。食べ物や水、最近なら原発も。地域とはそれだけで自給できる経済圏であり、都会は地域がなければ生きていけなかった。」

「それが今や地域が疲弊して、中央に頼り切っている。昔とは逆の構造になっている。地域が倒れれば都会も共倒れになる。」

「その上で地方も都会も両方生き残る選択肢を選び取ることが地方創生だ。ローカルからグローバルになることで社会問題がたくさん発生した今、グローバルからローカルへ。分断から繋がりへ。」

更に「今コロナで何もできない東京で燻っているなら地域に飛び込んでみたらどうだ?もちろん地域もコロナの影響は大きいが、地域の暮らし自体には東京ほどの張り詰めた空気感は無い。やりようはいくらでもある。」

というような話でした。

これは私にとって青天の霹靂でした。

もちろんこれは一つの意見なのでこれが全てだとは思いませんが、これを聞いて私は「地方創生は社会課題解決の本質なんじゃないか」という風に思いました。

逆に、本当の意味での地方創生が達成できれば、今ある大体の社会課題は解決できるんじゃないかなとも思いました。

そこからは地方・地域に興味を持ち、色々な地域系のオンラインイベントに参加しました。

ですが、ただ話を聞いたり本を読んだりしているだけでは正直何が何だかわからないと思い、どこでもいいから今すぐ地域に飛び込んでみたいと決心しました。

そう思ったらもう高校は辞める気マンマンでしたが、「いやいやちょっと待て」と、家族や友人は「高校卒業してからでもいいでしょ、あと1年とちょっとなんだから」という風になり、自分でも考えをnoteに書き連ねて整理したり、投資部コミュニティでも色々話したり、なぜか当時高校退学したいと共感する同年代のグループが存在したので、そこでも議論を重ねた結果、やっぱりいつ収まるかわからないコロナはもう待てない!失われた青春の時間を今からでも新しい体験で埋めつくしたい!と周囲に意気揚々と語り、親には大学卒業を確約して免罪符とし、高校退学を決めました。

これが大体高2の12月くらいの時です。

退学することは決めたものの、まだ行く地域は決まっていない状態で色々なオンラインイベントやミートアップに参加しましたが、その時は基本リモートでの勉強会が主であり、なかなか実際に参加できる地域プロジェクトはありませんでした。

しかし、当時流行っていた音声SNSのclubhouseを始めてみたところ「地域に興味ある学生集まれ!」というルームを見つけました。これはLIFULLのliving anywhere commons(LAC)の関係者さんが開いていたのですが、入ってみたらめちゃくちゃ距離の近い会話をしていて、「これなら自分も話せそう!」と意を決して手を挙げ、とにかく自分が地域に興味があること、でも実際に飛び込むところの宛てがないことなどを語ったら、主催者の方が「じゃあ1回今の参加者でLAC伊豆下田拠点に集まってもっと色々話そうよ」という流れになり、これはまたとないチャンスだと思いすぐに行く返事をしました。

ここで出会ったのが前職の会社の代表でした。
空き家をベースに地域の場づくり・コミュニティづくりを軸にした地域活性化を仕掛ける会社です。
その時で全国に10拠点ほど自治体契約を結んで空き家活用を行っている最中であり、他にもどんどん拡大中であったのですが、「どこか着いて行っていい所ありますか?」と聞くと、「今度熊本の天草ってところに新しく拠点作るから来てみる?」と言われ、2つ返事で「行きます!」と答えたのが前職、株式会社CASEに参加するスタートでした。

高校を辞め、始めて関東を出たのが2021年の夏。
当時17歳でした。

そこから今日までの約2年間は本当に怒涛の日々を過ごしました。

そもそも会社としては1週間程度のお試しインターンとして考えていたらしいのですが、元々どこか地域に居残る気マンマンだった私は天草・牛深が素晴らしい地域であることを知ったらすぐに社長に直談判して、「このまま居てもいいですか?お仕事の方は手伝うので!」と言い、会社がその時寝床として確保していた空き家を自由に使っていいことにしてもらいました。 

社長が帰り際に地域の方々に、「この若者が牛深に残りたいそうなので、食いっぱぐれてたら食べさせてやってください。」と挨拶回りをしてくださり、そしたら話は早いもので「うちでバイトしてくれたら助かるんだけど」という話が舞い込んできて、すぐに仕事と財源は確保。

ただ移動の足がなかったところを、親に地方に行くなら原付くらいは乗れるようにしといた方がいいよと言われていたため、原付免許は取得していたので「原チャなら乗れるんですけどねー」と会う人会う人に話していたら、噂を聞いた地域の方にお古の原付を格安で譲っていただくことがありました。

この時に言ってみたら何か起こる地域の面白さと、反応してくれる地域の暖かさに感動しました。

そんなこんなで毎日午前中はバイト、午後は会社の仕事の手伝いをして、お昼は地域の飲食店に行って世間話をしたり、祭りやイベントがあれば積極的にお手伝いに行ったりなどして地域に溶け込むことに一生懸命になりました。
地域の草野球チームにも入れてもらったりして、どんどんと街の人たちと仲良くなりました。

1年も経てばもうすっかり天草・牛深の人間と認めてもらえるようになり、自分も第2の故郷のように感じています。

そして1年経験を積んだ後は会社の社員として昇格し、色々なプロジェクトや業務の中核に関わり、常日頃必死に活動をしてきたのですが、去年の4月から通信制大学の学生としても歩みを進めたこともあり、自分のやりたいことと仕事の時間・キャパシティのせめぎ合いに苦しむようになりました。

悩みに悩みながらも、もう1年を駆け抜けて様々な経験を積んだのちに、やっぱり自分のやりたいことに集中して取り取り組みたいと思い、ライターとして独立することを決めました。

https://kachikeito.com/00001-2/
地域ライターへの想いについてはこちらに詳しく書いたので、こちらをご覧ください。

そして、今この記事を書いている。ということになります。

まだまだこれからではありますが、どうぞよろしくお願いします。

2023/5/9 かちけいと

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